第122回 関東談話会講演会

プロテオミクスのためのナノ LC-MS/MS システムの開発

(University of Southern Denmark, 現 エーザイ(株)シーズ研究所)  石濱 泰
 

 大規模プロテオーム研究を行うためには、タンパク質を網羅的かつ効率的に解析する必要があり、タンデムマススペクトロメトリー(タンデムMS)とタンパク質データベース検索によるタンパク質同定プロセスは必須のものとなっている。タンデムMSのフロントエンドには通常マイクロエレクトロスプレーを介してキャピラリーまたはナノLCが用いられており(nanoLC-MS/MS)、ここでの分離がタンデムMSへのペプチドの導入効率を決定し、ひいてはタンパク質同定効率を決定している。
 我々は、ポストカラムデッドボリュームを最小限に抑えられるよう、エレクトロスプレーニードル中に合掌アーチの原理を用いた自己凝集粒子型フリットカラムを作製した[1]。グラジエント溶出条件下で半値幅6秒以下のピークが得られ、大腸菌の細胞抽出液可溶画分を試料とした結果、90分のグラジエント溶出で約1500の同定ペプチドを得ることができた。しかし細胞内タンパク質をプロテオームレベルで網羅するには不十分であり、更にnanoLC-MS/MSのフロントエンド分離法を検討した。最近、ペプチドレベルでの多次元LCをタンデムMSと直結させたLCn-MS/MSが注目を集めている。この方法では上流のLC分離によって下流のLC-MS1回当たりの成分数を減らすことができるので、LCによる時間分離によってMS導入時の試料の測定可能濃度範囲が改善する。しかし、ペプチドレベルでの分画ではそれぞれの分画試料中のペプチド濃度は変わらないので、試料の濃度分布自体は大きく変化しない。特にある特定のタンパク質が試料中に大量に存在している場合、そのタンパク質由来のペプチドがLC-MS/MS分析の大きな障害となる。一方、タンパク質レベルでの分画は消化後試料のペプチド濃度分布の変化に直接つながるため、有効な手段となる。我々はSDS-PAGE分離後にゲルレーン全てを数cm毎にスライス化し、ゲル内消化した後、LCMS分析する方法(Gel-enhanced LCMS, GeLCMS法)を採用し、本法が下流のnanoLC-MS/MS法の能力を最大限に引き出すのに有効であることを確認した。
 更に、ゲル分離後試料のnanoLC-MS/MS分析法を検討した。試料を3つにわけ、3回の繰り返し分析、ガスフラクショネーション分析、排除リストの作成と繰り返し分析および異なるイオンペア試薬を用いる方法を比較した。その結果、排除リスト法とイオンペア法で約2倍の同定ペプチドが得られた。このうち、イオンペア法は自動化が容易なことから以下の分析ではイオンペア法を用いた。これらの手法をある特定のタンパク質が試料中に大量に存在しているプロテオーム解析(大腸菌シャペロニンGroELの基質タンパク質のプロテオームおよびマラリアプロテオーム解析[2])に適用した。
 大腸菌シャペロニンGroELの基質タンパク質プロテオームにおいて、基質タンパク質は、シャペロニンを大量に発現させた大腸菌の細胞からシャペロニンの補助因子であるGroESを固定化したカラムを用いて特異的に抽出した。試料内にはシャペロニンが目的のタンパク質の100-1000倍存在し、タンパク質レベルでの分画を用いない場合には10-20個のタンパク質が同定されたのみであった。SDS-PAGE/in-gel digestion/LCMS法を適用することにより、2Dゲルを用いた従来法では不可能であった200以上のタンパク質を一度に同定することができた。更に出発原料を安定同位体ラベルしコントロールとして用いることにより、基質のシャペロニンへの親和性を相対的に定量化することが可能となった。同様に様々なコントロール試料を同位体ラベルすることによりアフィニティーカラムへの非特異的吸着や基質-シャペロニン複合体のターンオーバーの影響なども除去できた。データベース検索の後ヒットペプチドの質量理論値を用いて再キャリブレーションを行うことによりQ-TOF型MSの質量精度の平均値は約10 ppmとなった。ある閾値以上の親イオン質量の理論値との乖離はデータベース検索の際に生じる偽ヒットペプチドの除去に用いた。さらにSDS-PAGEから得られる各スライスにおけるタンパク質の分子量と理論分子量との乖離およびペプチドのアミノ酸構成からのLCの保持時間の推定値との差も偽ヒットの除去に利用した。
 熱帯熱マラリア原虫(Plasmodium falciparum)はヒト赤血球に寄生するため、試料中への大量のヒトヘモグロビンの混在が避けられない。網羅的なマラリアタンパク質の同定を行うためにはヘモグロビンの影響を抑えることが必須であった。細胞抽出液は可溶成分と不溶成分に分離した後、それぞれをSDS-PAGE/in-gel digestion/LCMS法で分析した。原虫のライフサイクルの三ステージから抽出した試料を用い、約150のnanoLC-MS/MS分析を行った。同時に行われたゲノム解析プロジェクトの注釈付けゲノムデータベースを用いてデータベース検索を行った結果、計1,289種のタンパク質が同定され、そのうち714種のタンパク質は無性生殖期で、931種は生殖母体期で、645種は生殖体期でそれぞれ同定された。マラリアゲノムはこれまで配列解読されたなかで最も(A+T)に富んだゲノムであり、注釈付けが難しいため、注釈付けゲノムデータベース検索でヒットしなかった残りのMSMSデータを用いて直接ゲノムに対してデータベース検索を行った。その結果、新たに100以上のペプチドを決定し、アノテーションモデルの再構築を行った。更にSDS-PAGEから得られるタンパク質の分子量情報と注釈付けゲノムからの推定分子量の不一致が認められた一群のタンパク質について詳細を調べ、ゲノム注釈付けミスや翻訳後スプライシングについて確認した。
 ところでnanoLC-MS/MSシステムの安定した稼動には試料の精製ろ過は不可欠である。我々はピペットチップにC18エムポアディスク(テフロンメッシュ中にクロマトグラフィー用担体を保持させたもの)を固定させたマイクロカラム(STop And Go Extraction tip, StageTip)を開発し[3]、LCMS試料の前処理に利用している。更に、異なるクロマト担体を保持したディスクを一つのピペットチップに組み合わせたmulti-StageTipを開発し、簡易分取システムとしての性能を評価した。その結果、塩基性条件下での逆相分離系および強カチオン交換分離系で最大の分画効果が得られた[4]。
 その他StageTipはプロテオミクス用前処理マイクロデバイスとして、トリプシン消化やゲル片・色素・SDSの選択的除去に用いることができた。またチタニア担体をC18ディスクと組み合わせることでリン酸化ペプチドの選択的抽出が可能であった。

[1]   Y. Ishihama, J. Rappsilber, J.S. Andersen, M. Mann, J Chromatogr A 979 (2002) 233.
[2]   E. Lasonder, Y. Ishihama, J.S. Andersen, A.M. Vermunt, A. Pain, R.W. Sauerwein, W.M. Eling, N. Hall, A.P. Waters, H.G. Stunnenberg, M. Mann, Nature 419 (2002) 537.
[3]   J. Rappsilber, Y. Ishihama, M. Mann, Anal Chem 75 (2003) 663.
[4]   Y. Ishihama, J. Rappsilber, M. Mann, in Proceeding of 51th ASMS conference, Montreal, Canada, 2003, p. MPX489.